第九回 罪悪感について(その一)
感情のコントロールで苦しんでいる人はたくさんいます。私の経験の中では一番多いのは「怒り」のコントロールですが、それに負けず劣らず多いのが「罪悪感」です。
罪悪感というのは、「私のせいだ」「私が悪かった」「申し訳ないことをした」「もっとすべきだった」などと感じる感情のことで、取り分け罪を犯したわけではなく、誰に責められているわけでもないのに、自分自身で自分を責めてしまう気持ちが抑えられないのです。
ローゼンツヴァイクの作った「P-Fスタディ」という性格テストでは人の性格を「内罰型」・「外罰型」・「無罰型」に分けています。失敗したり、思うようにならなかった時に自分を責めるか、他人を責めるか、或いは誰の所為でもないとするかの傾向から、その人の性格を計ろうとするものです。外罰的で何もかも人の所為にするのは傍迷惑ですが「内罰型」の人は罪悪感を持つことが多く、自分迷惑と言えるかもしれません。
内罰型の人の持ちやすい罪悪感は二つに分けられます。
ひとつは、過去に自分がしたこと、或いはしなかったことへの後悔から来るものです。
親の求めを振り切って故郷を出てしまった。家業を継がなかった。親が薦める縁談を断わり、好きな人と結婚して親を悲しませた。遠くにいて、或いは仕事が忙しくて身体の弱った親を看取らなかった。本当は自分の手で育てるべきと思っていたのに仕事優先で、子供を保育園に預けてしまった。べんきょう、べんきょうとうるさく言い過ぎた。
逆に、生活優先で子供に習い事をさせてやれなかった。子供は私立に行きたがったのに、お金がなくてやってやれなかったなどなど、後悔に繋がることはいろいろあります。
もう一つは自分が不当に恵まれすぎていると感じる思いから来るものです。
太宰治もその一人でした。太宰は津軽の名家の四男坊として生まれ、自分が恵まれた環境にあることを後ろめたく感じていました。殊に、有島武郎(長男)が自身の所有する農場を小作人達に開放したことに影響を受け、四男である自分が何も出来ないことに烈しい罪悪感を抱いていました。
どちらも他の人から見れば持たなくてもよい罪悪感です。「そうするより仕方がなかったんじゃないの?」、「自分が悪いんじゃないよね」と言われることばかりです。でも、当人にとっては自分が許せないのです。自分は罪深い人間だと己を責めてしまいます。何故自分を責める人と責めない人がいるのでしょう。
どうやら、その人の良心や道徳観、そこから来る道徳的判断、良心的判断と関係がありそうです。
道徳的判断とは「何を為すのが善であるか」についての判断であり、良心的判断とは、「善なる行為を自分が実際に為したかどうか」についての判断です。
道徳というのは集団や社会生活の秩序を維持することを目的とした規範、つまり人が社会人として従うべきルールのことです。そのルールを道と呼び、道をどの位まで守ることが出来るかが徳になります。この規範はあくまでも社会維持のためのものですから、社会により時代により異なるのは当然です。ですから道徳は常に変化するものなのです。
一方良心というのは、個人が己の持つ規範意識に照らして、ことの可否や善し悪しを測る心の働きのことです。その意味で、良心は道徳観と深く関わってはいますが、必ずしも道徳観と同じではありません。自分の行為が自分の内にある道徳的規範と一致しているかを判断する心と言えるかもしれません。それが合致しないとき、自分を責める気持ちが起こるのです。そのため人に責められるわけではないのに罪悪感を持ってしまうということが起こるのです。
次回ではこの良心についてもう少し深く触れたいと思います。