第十回 罪悪感について (その二)
人間の行動が無意識によって左右されることを最初に言い出したのは精神分析学の創始者ジクムント・フロイドです。彼は人間のこころを「エス(es)」「自我(ego)」「超自我(super-ego)」という3つの領域に分けて考えました。 エスというのは自分では意識化されることのない欲求や衝動を指し、心の中で一番原始的な部分です。快か不快かという「快楽原則」によって働く無意識の領域です。かつては本能と言われていました(今では本能という言葉は心理学では使われません。)
一方超自我(super-ego)は「~すべき」「~しなくてはならない」「~してはいけない」という理性の領域で、意識的な部分と無意識の部分が混じり合っています。多くは両親などから幼い頃に受けた躾、幼稚園や学校の先生からの教えなどが、こころの中に取り込まれてできた領域のことをいいます。子供の頃のこの教えはいつの間にか個々の人の心に定着して、大人になってからはだれに言われる訳ではないのに、快楽原則で勝手に動こうとするエスの見張り役のようになってしまいます。フロイドはこの超自我が道徳性の根源であり、ここから良心が生まれ、良心に反する行動を取ることで罪悪観が発生すると考えました。
もう一つの領域、自我は何かを感じたり、考えたり、行動する主体つまり「わたし」のことです。 自我は「現実原則」に従って機能していて、「エス」や「超自我」の調整役となって、こころのバランスを保っています。それに加えて、周りの状況を把握しながら適切な判断を下し、社会に適応していくという役割も担っています。
さまざまな欲求の満足を求める「エス」対して「超自我」は社会的に受け入れられる行動を行うように促します。つまり、「エス」の欲求を禁止したり、コントロールしようとするのです。両者は烈しく闘います。そうなると動きが取れませんから、何とか折り合いを付けるように仲立ちをするのが「自我」ということになります。
例えば、会社の中間管理職のようなものです。上司からの命令と部下からの突き上げの間に立って、どちらにも納得して貰えるような解決策を見つけようとする。上司も部下も納得しないということになれば、中間管理職とも言える自我は強いストレスを抱えることになります。
発達の初期段階では、養育者からの躾を取り入れることによって道徳的な判断基準である「超自我」が形作られ、親の言うことを聞くよい子でいますが、発達が進むにつれ段々、「自我」は親の言っていたことを全てそのまま守っていくだけでは生きづらいことに気づきます。そこから、第一反抗期が始まり、更に第二反抗期である思春期などになると親への反抗が酷くなるのですが、実はこうした反抗を通して、自分らしさを形成していくのです。つまり、一度は親の価値観に基づいて作り上げた「超自我」を反抗によって自分に馴染む形に作り替えていくのが反抗期なのです。そうすることで、調和を持ってよりよく生きていくための理想的な姿、つまり理想我(ego-ideal)と呼ばれるものを作り上げるのです。これが本当の意味での良心になっていくのだと私は考えています。言い換えれば、良心は親から受けた超自我と無意識の中にあるエス、現実世界の中で折り合っていくために自我が学び取った全てを含めたものだと言えるかもしれません。
ところがこの過程で自我が弱いと、つまり、超自我のコントロールから逃れられなかったり、逆にエスの欲求に負けたりして上手に調停役が務まらないと、自我はストレスに耐えられず、ダウンしてしまうこともあります。しっかりした理想我を作り上げることが出来ず、超自我に左右され罪悪感に苦しむことにもなります。ですから、自我は鍛えて強くしておく必要があるのです。反抗期が必要だというのもその意味です。
カウンセラーはこうしたこころの構造を念頭に置きながら、クライアントの話に耳を傾け、現在困っている悩みや症状がどういったこころのメカニズムから生じているのかについてクライアントと共に考え、問題をひとつひとつ解決していくことで、少しずつ自我を鍛えていくのです。カウンセラーの仕事のひとつは、この自我の成長を手助けすることにあるのです。
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