「自分の木」の下で
大江健三郎は多くの人が知るノーベル賞作家ですが、寝転がって気楽に読める作品を書く人ではありませんでした(少なくとも私には。)作者も読者も真摯に作品に向かうことを求められているような小難しさがありました。それでも、私に取っては、新しい作品が出ると読みたくなるような作家でした。
“「自分の木」の下で”はその彼が、はじめて子どもに向けて書いたエッセイ16編を集めたものです。とても分り易く、それでいて子どもの疑問に真剣に向き合い、自分の考えをしっかり伝えようとしています。大人が読んでも心にすっと入ってくる素晴らしいエッセイだと思います。(所々の挿絵は妻であるゆかりさんの手になるもので、それがこの本を更に優しい作品にしています。)
この本が出版されたのは2001年で、初めて読んでから20年以上も経っているのですが、その中に出てくる彼の故郷の村の言い伝えが私には今も忘れられません。
彼の故郷の谷間の言い伝えでは、人にはそれぞれ「自分の木」と決められた樹木が森の高みにあるというものでした。人の魂は、その「自分の木」の根元から谷間に降りてきてそれぞれの人間としての身体に入る。死ぬ時には、身体がなくなるだけで、魂はその木のところに戻っていく。また、(子どもが)森の中に入って、たまたま「自分の木」の下に立っていると、年を取った自分に出会うことがあるというものでした。
これを読んだ時私は59才で、既に年を取っていましたが、それでも、今よりもっと老いた自分に出会いたい。そして、「あなたはどう生きてきたのですか?」と聞いてみたいと思いました。還暦を前にして、これから何年あるか分からない残りの人生をどう生きていったらよいのかと迷っていた時でした。何か生き方の指針が欲しいと思い、年老いた自分にその指針を求めていたのです。でも、残念ながら私は「自分の木」にも、年を取った自分にも出会うことが出来ませんでした。悩みながらもカウンセラーという生き方を継続し、その後、23年暮らしたシアトルを離れ帰国しました。そして現在80才になりました。
名実共に老人になった現在、今度は「自分の木」の下に立って、子どもの自分、或いは59才だった頃の自分に出会いたいと心の底から思っています。そして、その頃の自分に聞いてみたいのです。「あなたはどう生きていきたいのですか?」と。
同時に、自分がどう生きて来たかを子どもの頃の自分、59才の自分に話したいとも思います。私はこんな風に生きて来ましたが、それはあなたの望んでいた生き方でしたか?あなたは私が生きて来た人生を受け入れてくれますか?あなたが生きたいと思っていた人生と違っていますか?どんな風に違っていますか?それでも、あなたは私の生き方を受け入れてくれますか?こんな風に生きて来たことを許してくれますか?
そんな対話を人生の終わりに子どもの頃の自分と交わしたい。そうすることで、子どもから老人までの継続する一人の人間として人生を了えることが出来るのではないかと思うのです。
年老いて終活期に入ると、自分の人生の総括をしたいと願う気持ちになるのかも知れません。その時、一番知りたいのは子どもの頃の自分の気持ちに添った人生を送ったかという事です。子どもの頃の純な気持ちを自分はどの位持ち続けることが出来たのか、だれの評価でもなく、子どもの頃の自分自身の評価が欲しいです。厳しい評価でも受け入れようと思います。そして、自分が駄目にしてしまったかも知れない子どもの頃の自分に詫びたいと思います。
人生の終わりに自分自身に詫びることを少なくするためには、どう生きていきたいか…どんな人生を望んでいるかという自分の願いを大切にし、尊重し、自分の心に真っ直ぐ向き合って生きていって欲しい!
「自分の木」の下で老人にも子どもにも出会えなかった人間として、これから生きる若い人たちにそれを強く願っています。
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