諦めと自己受容
日本人は「しかたがない」「しょうがない」という言葉をよく使うと知り合いの外国人たちから何度も指摘されたことがあります。第二次世界大戦中アメリカの強制収容所に入れられた日本人が「Shikata ga nai」というフレーズを頻繁に用いていたこともよく言われています。
「仕方が無い」を国語辞典で見ると「どうすることも出来ない」「やむを得ない」「不満足ではあるが、諦めるほか無い」とあります。また、理不尽な困難や悲劇に見舞われたり、避けられない事態に直面したりした際に、粛々とその状況を受け入れながら発する日本語の慣用句ともあります。何れも受け身でネガティヴな響きがあります。
このような諦観は自然災害に見舞われることの多かった昔の日本人が、責めようのない気持ちを収めるための言葉だったのかもしれません。飢饉に見舞われても年貢を取り立てられた百姓達の痛みの言葉だったのかも知れません。
実は、私の母もよく使いました。「しょうがない。あきらめた。なるようにしかならない」と母が言うのをよく耳にしました。ただ、子どもだったその当時私の耳には余りネガティヴには響きませんでした。むしろ、ふっきれたような明るさがありました。
私の母は普段はどちらかというと明るい元気な人で、私の話をよく聞いてくれました。ところが、時々心配事があるのか何かを考え続けている様子の時がありました。そんな時は私の話も上の空でした。それが一日で終ることもあれば、何日も何日も続くこともありました。そういう時は話しかけずそっとしておくのがよいと私は体験で知っていました。暫くすると必ずふっきれたようにまた元に戻り、元気になり、話も聞いてくれるからです。その間何が起こっていたのか、どうなったのか全く分かりませんでした。
ただ、時々自分を元気づけるように「あきらめた!」と言ったり、「しょうがない、しょうがない!」「なるようにしかならへん」と声に出して言ったりしていました。相談相手もおらず、自分一人で悶々と考えているのだということだけはよく分かりました。
また、私が何か困っていると訴えた時は話をしっかり聞いてくれ、最後に「後は自分で考えなさい。とことん考えなさい。何遍も何遍も考えて、それで決めたことはもう迷ったらあかん。それが一番いい答えや」と教えました。
私は母のその姿を見ているので、諦めることは決して簡単なことでは無いとを知っています。結果として「あきらめた!」と言う時の母は潔く、決してネガティヴではありませんでした。既に次に行動を移そうとしていました。
このことに関しては今まで余り深く考えないできましたが、今回ふと思い立って色々調べてみました。
驚きました。日本語で”諦める”は放棄、断念、ギブアップなど、マイナスイメージで使われることが多いのですが、漢和辞典で「諦」を調べると悪い意味はひとつも無かったのです。
諦めるという言葉は、物事をつまびらかにする。いろいろ観察をまとめて、真相をはっきりさせることとありました。諦めることは簡単に”give up”することではなかったのです。
さらに諦めるは仏教語ではsatya(サティア)と言い、真実、真理、悟りを意味する素晴らしい言葉ともありました。
ですから、「諦める」の語源は「明らむ=明らかにする」ことであり、実際に日本語の「諦める」と「明らか」は言葉として同源のようです。物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、初めて、やっと諦められるというニュアンスを、もともとは含んでいたのです。
それが、日本語ではいつの間にか「明らかにする」という大切な土台がゴッソリ抜け落ちて、望んでいることを途中でやめるという意味ばかりが使われるようになってしまったようです。
私たちが「苦しい」「つらい」「嫌だ」「つまらない」など、マイナスの感情を抱くのは、ことごとく自分の都合通りにならない時です。こうした状況がなぜ起こっているのか、考え、明らかにする。そして明らかになった時に、自分が納得する。その時のキーワードが「仕方がない」という言葉のようです。そこには、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考のプロセスがあるのです。中途半端に投げ出すのではなく、物事を明らかにした上で諦めるのは、人の心を穏やかにしてくれるのでしょうか。
この物事を明らかにするという本来の意味での「諦め」は、よいところも悪いところも認めた上で自分自身を受け入れる「自己受容」と似たところがあります。
自分の善いことも悪いこともしっかり認めること。自分がポジティブに感じる部分もネガティブに感じる部分も評価せず、無条件に全部受け入れることが出来た時、初めて自己肯定感が生まれ、次に進むことが出来る。積極的な生き方が出来るのではないかと思います。
とは言え、物事を明らかにすることも自己受容をすることも一人で行なうには時に難しい仕事です。そんな時、解決に向かおうとするクライアントの傍らを離れず、一緒に歩むのがカウンセラーの役目ではないかと私は思っています。
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