第二十四回ブログ 自己倦厭と自己憐憫
自己倦厭(けんえん)、ちょっと聞き慣れない言葉ですが、意味は自分で自分のことを疎ましく思ったり、嫌いになることを言います。
何かに失敗してしまった時。意図しないで人を傷つけてしまった時。当然気づくべきことに気が付かなかったり、周りと比べ自分が劣っているように感じられた時。場違いな発言をしてしまったと分かった時などなど。どうしてあんなことをしたのだろう。どうして出来なかったのだろう。恥ずかしい。惨めだと自分を責めたり、自分が嫌になってしまったことはありませんか。
自分で自分のことが嫌になったり、自分という存在を否定したくなったりという経験をしたことのある人は決して少なくないと思います。
私は青年期の頃、人間として自分自身が醜い、嫌だと思う気持ちが強く、時に思い詰め、そのため生き苦しく思ってきました。そんな時、自己倦厭と自己憐憫の作家と言われる太宰治の作品を読むことで自分を重ね合わせ、慰められてきました。ところが年を重ねるに連れ、いつの間にかそうした気持ちが薄れ、気が付くと自己倦厭も自己憐憫もあまり考えること無く暮らしてきました。ところが、先日、久し振りに私は自己倦厭と自己憐憫を味わいました。
5年前から始めた「朗読グループ」の発表会の時です。一つの出し物を半年前から練習し続け、初めはだめ出しばかりだったのが段々上手になり、最近は練習の度に先生から「いいね~。よくなったね~完璧だね」と褒められていました。この先生は滅多に褒めない先生なので、私は最初褒められても半信半疑でした。でも、先生は私の成長を心から嬉しく思ってくれている様子なので、私も段々嬉しくなってきていました。
ところが発表会当日、聴衆の面前で突然声が詰まってしまったのです。エヘンと咳払いをしようか、どうしようと考え焦ってしまいました。そのためかなり暫く間が空いてしまったのです。結局咳払いはせず、思い切って声を出したところ、最初はだみ声(?)でしたが、直ぐに治り、何とか朗読を続けることが出来ました。
でも、私は自己倦厭で打ちのめされました。本番前にのど飴を舐めていたらよかったのでは?水を飲んでいればよかったのでは?エヘンと咳払いをした方が間を開けるよりよかったのでは?褒められて慢心していたのでは?他の人たちは失敗しなかったのに、何故自分は失敗したのか?今までの発表会で失敗したことはなかったのに!こんな年寄りが発表会に出ること事態おかしいのでは?色々な思いが頭をよぎり、穴があったら入りたい。このまま消え入りたい心境でした。ただただ恥ずかしく、先生に申し訳ない気持ちで一杯になりました。打ち上げの食事会も出来れば欠席したい心境でした。
そんな私を救ってくれたのは「自己憐憫(れんびん)」でした。
自己憐憫というのは、先にも書きましたが「自分を哀れだ、かわいそうだ」と思うことです。
普通には自己憐憫の感情を持つことはマイナスのように言われています。自分を悲劇のヒーロー・ヒロイン気取りのような状態で、被害者意識が強いとさえ言われます。客観的に物事を見ることが出来ない人と評価されることもあります。太宰治を嫌う人は彼の自己憐憫に依存している態度を嫌うようです。
でも、私はそうは思いません。自己倦厭の感情を救うのは自己憐憫しか無いと思っています。
今回の失敗でも、私は、自己憐憫で自分を包み、自分を護りました。
「可哀想に。あんなに頑張ったのに上手くいかなかったんだ」「しょうがないよ~」「辛かったね。いいよ。いいよ。好きなだけ泣いてもいいよ」と一生懸命自分で自分を慰撫しました。
それでも自分に対する倦厭の気持ちは居座り続けました。
そしてここで顔を出したのがはメタ認知です。
メタ認知というのは「自分の認知活動を客観的にとらえる、つまり、自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること」です。自分の心や考えを見ているもう一人の自分を自分の中に持つことです。(これは訓練で身につけることの出来る能力です)そうすることによって、自分の言動について、もう一人の自分が客観的な立場から、その言動を調整したり調和したりすることができるのです。
私は自分の中の自己倦厭と自己憐憫という二つの感情をじっと見つめていました。どちらも自分の感情です。失敗した自分が嫌だと思う心、失敗した自分を可哀想に思う心、二つが入り交じり闘っているのが見えました。すると段々気持ちが楽になってきたのです。そして、失敗した自分を自分なりに受け止めることができるようになりました。
“失敗したのは事実だよね。それは今更変えられないよね。認めるしかないんだよね~。認めるって辛いね。でも、最後まで続けたことは褒めてやろうよ。『私は失敗しました。でも、最後まで遣り遂げました』でいいじゃない。確かに恥ずかしかったし、思うようにならなかったのは辛かったかもしれないけど、頑張ったじゃない。それだけでいいよ!まあいいか!って受け止めてやろうよ。“
私の心の中で折り合いをつけようとさまざまな思いや葛藤が努力しているのが見えました。
こんな風に私のこころの動きを見つめているもう一人の私のお陰で、私は気持ちを立て直すことが出来ました。メタ認知は感情に溺れ、崩れがちな自分を客観的に見ることで正しい判断に導いてくれました。
そして、打ち上げの食事会にも参加し、上手くいった仲間をこころから祝福することが出来ました。
ありのままの自分を見つめるのは時に辛いことかも知れません。受け入れるのは更に難しいことかも知れません。でも、自分でそれを認めると不思議にこころが軽くなるのです。
所詮、プラスもマイナスもあるのが人間。完璧な人はいないのです。自分は完璧になろうと思ってたの?
ムリムリ。そんな風に教えてくれるもう一人の自分と道連れで生きるのは心丈夫なものです。
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